飛行機の中での出会い

飛行機ではたまに隣の席の人と話す。フライト中は皆が退屈しているので良い暇つぶしになるのだ。私はなんだか恥ずかしいので自分から積極的に話しかけることはしないけれど、話しかけられることはたまにある。アフリカ大陸移動中は、もちろんアフリカ出身者が多く乗っており、独特の空気の中、飽きることなく周りの人と話をした。

ロンドンからヨハネスブルグの11時間のフライト中に、始めに話しかけてきたのは南アフリカ航空のフレンドリーすぎるCAだった。私が南アフリカ産の白ワインを飲んでいたら、「南アフリカのSAKEは美味しいか?」と聞くので、何で私が日本人だとわかったのだろうと不思議に思いつつ「美味しい」と答えると、「もっと飲むか?」と聞かれたので、「後でね」と適当に流した。その後は何も言っていないのに2種類の白ワインを持ってきてくれ、私が1本目とは違う種類のワインを選ぶと、その後はどちらが好きかと聞いてきた。最後には美味しいと言った方をまた勝手に持ってきて渡された。彼はほぼ間違いなく日本文化が好きな人なのだろうが、これには隣の席に座っていたモザンビーク人のお姉さんもびっくり。

左のシャルドネが好み。

ほろ酔いの私は、ロンドンには会社の研修で一週間滞在し今は帰国の最中だというモザンビーク人のお姉さんとモザンビークの問題について話をした。私は恥ずかしながらモザンビークについてほとんど何も知らなかったけれど、日本の企業がモザンビークに進出していていることを、私が日本人だと知るとすぐに教えてくれた。それは東北電力が液化天然ガスをモザンビークの企業から2020年から15年間購入するというものだった。私が知らないだけで、モザンビークは日本人の生活に関係していたのだ。彼女はモザンビークの政治家の交渉力のなさを嘆いていた。豊富な天然資源があるのにそれを有効活用できていないのだという。私に少しでも予備知識があればもっと話は盛り上がったのだろうが、そうともいかず私はただ相槌を打つしかなかった。自分の知識のなさを恨んだ。そしてこれは良く言われることだが、日本の第二次世界大戦の敗戦からの経済成長をとても褒めてくれた。原爆を落とされて焼け野原になった日本の復興は、海外で経済発展の話をする時にはよく話題になることのひとつだ。私は日本人ではあるけれど、戦後の焼け野原を生きてきたわけではないので、どんな反応をしたら良いのかいつも迷ってしまう。

そんな長い長いフライトの後は、ヨハネスブルグからケープタウンまでの2時間の短いフライト。寝る気満々だったのに、隣の席の既に酔っぱらって顔の真っ赤な白人南アフリカ人のおじさんにまたしても捕まった。

自分の会社を持っていて、かつ国連所属のパイロットなのだという。パイロットにどうやってなったのかと聞くと、アンゴラの内戦時にパイロットとして徴兵されたのがきっかけだと言った。まさかパイロットの話から戦争の話になるなんて想像していなかったのでうろたえた。たくさんのパイロット仲間が死んだと言っていた。そして直接は言っていなかったけれど、彼はアンゴラを爆撃していたようだった。返す言葉が見つからなかった。

話が一通り終わって、私がうとうとしていると、私を起こしてきて窓の外に拡がる南アフリカの大地について丁寧に説明をしてくれた。特に金が多くあり、それを処理する大規模な施設が大地に点在していることがよくわかった。何度も起こされ寝られなかったのは辛かったけれど、彼の解説は有難かった。

今は冬だから茶色だけど夏は緑で綺麗なんだよ、とおじさん。

このおじさんは奥さんと高校を卒業したばかりの双子の娘さんが空港まで迎えにくるので車で私をホテルまで送ってくれるという。少し迷ったけれど、悪い人には見えなかったのでお言葉に甘えることにした。仲の良さが垣間見られる良い家族だった。私に飲み物を買ってくれ、移動中はケープタウンの危ない場所や危険回避の仕方、お勧めの場所を教えてくれ無事にホテルまで送ってくれた。連絡先も交換し、ケープタウンで何かあった時の私の緊急連絡先になった。

日産の車内から見るケープタウンのテーブルマウンテン。

初対面でこの距離感で話ができるのはなかなかないことだ。それはとても自然だったし、この人との距離の近さががアフリカの文化の一部のような気がした。そしてケープタウン滞在がますます楽しみになったのだった。

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