絵本と思想形成―ピーターラビットとキリスト教

久しぶりに本棚の整理をする。マレーシアに引っ越す時に数百冊の本を整理したのに、気が付いたら帰国してからの1年でまた増えていた。本は気が付くといつのまにか増えている。不思議だ。

オンラインミーティングをしていると、たくさんの本が並んだ本棚が映り込んでいる人を良く見かける。本棚は持ち主の一種思想的なものが反映されると思っているので、どんな本が並んでいるのかいつも気になっている。

私は本を本棚に並べるのが好きだった時期もあったけれど、今は必要でないものは手放すようにしている。移動したい時にすぐ移動できるように、本に限らず必要最低限のものしか所有しないことにしているからだ。多くの本は一度手放しても、また同じものを購入することができるので、必要に応じて同じ本を購入することもある。

そんな私だけど、どうしても整理できない本がある。幼稚園の時に買ってもらったピーターラビットの本だ。

3冊ずつボックスに入っている

家でも読んだが、サイズが小さいのでよく一緒にお出かけもした。とにかく何度も何度も繰り返し読んだ。

小学生の時に買ってもらった時計は、ピーターラビットの絵が入ったものだったし、大学生の時にピーターラビットが生まれたイギリスに行った時には、英語版のピーターラビットの絵本も買った。

英語版ピーターラビット

そんなピーターラビット大好きな私だったので、大学の司書課程の授業「児童文学論」で、ピーターラビットの物語にはキリスト教の思想が色濃く反映されている、ということを知って、ものすごい衝撃を受けたのだった。

あんなに何度も読んでいたのに誰も教えてくれなかったし、自分で気が付くこともなかった。当時幼稚園児の私が気が付くことはまず不可能だったと思うが、買い与えていた両親も知らなかっただろうと思う。

でも冷静になって考えてみると、このようななんらかの思想が入っていることは、絵本をはじめとする児童文学では「当たり前」のことである。

そもそも絵本には伝えたいメッセージがある。それは宗教的なことだったり、教訓だったりする。つまり、その時の社会にとって「理想的な人」を作るための教科書のようなものなのだと思う。

このところ、メディア情報リテラシーについて考えたり、人の思想や価値観とはどのように醸成されるのか、ということに興味を持っている。そんな中で改めて思うのは、価値観・思想形成は生まれてからのすべての過程で行われているということである。

見聞きするもの、そのコンテンツが何かを意図しているかどうかに関わらず、すべて周りから私たちの価値観と思想は作られていて、それはこの先もきっと変わらないだろう。

ネットの普及によって情報が溢れる現代になった。不確かな質の悪い情報ばかりに接し続けると価値観や思想に偏りが生じ、人格を左右することになるのだろうと思う。そう考えると、情報の取捨選択方法、情報の正しい取得方法を身に付けることは現代においてとても大切なことのように思える。

 

さて、ピーターラビットとキリスト教の繋がりが気になってしまい、『ピーターラビットの謎 キリスト教図像学への招待』著:益田 朋幸 (東京書籍)をポチってしまった。本棚の整理をしていたのに、結局また本を買ってしまった。読書は読書を誘発する。読むのが楽しみである。

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です