ステレオタイプの呪縛

Mikiって~な性格だよね、とかMikiって~な人だよね、と言われる時にはほぼ100%全然私が予想していないような言葉が入る。その度に私はそのような風にこの人に映っているのだな、と少し複雑な気分になりつつ、とても興味深く他人から見た私の性格分析を聞く。どんなに私自身が違うのではないかと思ったとしても、私は基本的にそれを否定することはしない(肯定もしないが)。どのように私をみるかは他人の自由だからである。そしてその後に私はなぜその人が私の性格をそのように認識しているのかについて考えを巡らす。きっと私の接し方がそのように認識させたからだからである。

私はなぜか「昇進したい人(組織内でエラくなりたい人)」に思われることが多い。正直なところ、私は全くエラくなることに対して興味がない。私はただ目の前にある仕事をちゃんとやりたくて、そこから出来る限り多くのことを学びたいと思っているだけなのだ。多くのことを学ぶ機会を得られるなら昇進させてもらうのも歓迎するけれど、昇進するためにがんばったことは今まで一度もない。上司との喧嘩は数え切れないほどしてきたが、ご機嫌をとったことはない。でもなぜか私のこの考えを理解してくれる人は少ない。仕事を真面目にやる人=エラくなりたい人という公式の例外を認めてくれないからだと思う。

今まで私が出会ったステレオタイプで一番面白かったのは、まだ日本で働いていた時、私をバックパッカーだと知ったほぼ初対面のクライアントさんが、「性病には気をつけてね」と言ってきたことである。これには目が点になったし、さすがの私も否定した(信じてもらえなかったようだけど)。でも女一人旅=現地の男とセックスする旅、と認識する人もいるのだなぁと新しい発見だった。もしかしたら彼の周りには旅先でセックスをするバックパッカーがいるのかもしれない。

生活していると色いろなステレオタイプを信じている人や、人をカテゴライズしようとする人に出会う。こんな行動を取る人はこんな人、みたいな公式が色いろと存在していて、みんなそれに当てはめて人を判断したりしているようだ。それはとても単純で簡単な作業だと思う。状況やその人の背景などを考慮する必要がないからだ。

大学生のころ「~ちゃんは○○なタイプだから」が口癖の友人に、人をカテゴライズするのはあまりよくないんじゃないかと言った時、「カテゴライズしないと不安なんだ、そうでないとその人が何を考えているのかが予想できないから」と言われて、その感覚を全く持ち合わせていない私はなんとも言えない衝撃を受けたけれど、多くの人はその友人と同じ感覚なのかもしれないと、今になって思う。

でもやっぱり、人間はそんなに単純じゃない。

以前、別の友人が、「人は自分の見たい世界を見るのだから、それを他人がコントロールすることはできないのだ」と言っていて、妙に納得したのを覚えている。発言や行動を意図していない方向に捉えられようとも、明らかに違うカテゴリにカテゴライズされようとも、それがその人の見たい世界なのだと思う。

でも、それでも私は出来る限り人をカテゴリに分類して終わりにするのではなく、一人ひとりと向き合って付き合いたいと思う。人ははっきり分類できるものではなく、常にグラデーションがあり曖昧なものだと思うのだ。それをするには無意識のうちに発動されるステレオタイプの呪縛から逃れることが必要だ。難しいのは承知のうえだが、それを誰と会う時であっても心に留めておきたい。

さて、寒い寒いトロントを脱出して少し暖かい南の方へ少し旅に出ました。純粋な一人旅は久しぶり。女一人旅だけど性病なんて一切心配せず安全に自由気ままに楽しんできます。

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