ファクトチェックの「考え方」は人を助けるかもしれない

先日、個人的にファクトチェックのことを中学校の先生と、高校生にお話しする機会をもらった。まだまだ認知されていないファクトチェックなので、興味を持って聞いてくれて嬉しかったし、励まされた。

その話の中で、ファクトチェックの対象になるのは「事実かどうか検証可能なもの」のみである、という話をした。たとえば、誰かの「意見」はチェックの対象外になる。

それは、どんな意見であったとしても意見を持つことは個人の自由で検証できないからである。意見によっては発信したことで誰かを傷つける可能性があるので、発信する時には配慮が必要だが、基本的にどんな意見を持つのも自由であり発信するのも自由だ。

ファクトチェックは、事実(ファクト)が変えられて発信され拡散しているものをチェックするものだ。新型コロナ関連だと、「お湯を飲むと新型コロナの予防になる」「トイレットペーパーは中国からの輸入品なので購入できなくなる」などがそれだ。これは実際にはそのような事実はないけれど、信じた人たちが拡散してしまい、社会を混乱させた。これは、「意見」ではなく、「事実」かどうかの検証が可能なので、ファクトチェックの対象となる。

 

日常生活の中にも、「事実」と「意見」は混在している。だが、それを意識している人は多くない印象だ。特に未成年だと「事実」より「意見」を前面に出された「アドバイス」を受けることも多いのではないか。

私にも経験がある。私が高校を辞めようとした時に、周りの大人から「高校中退したら人生が終わる」というようなことを言われ、中退を思いとどまるように説得された。だが、実際には中退届を出した後、転入先の高校も決まり(転入試験に合格したのだ)、3年間で高校を卒業できた。仮にこの時に転入試験に合格できていなかったとしても「人生が終わる」ということにはならなかっただろう。そもそも「人生が終わる」という状態が曖昧なので検証できないし、これは周りの大人の意見であり推測だからである。

「あなたのためを思って言っている」というたぐいの「意見」を基にしたアドバイスは、善意を持って行われることが多いのだろうが、言われる方は苦痛を覚えることもある。

この言葉をファクトチェックの対象かどうかを判断する時のように考えると、ただの一個人の「意見」であり、「事実」ではない。そう考えると、アドバイスを受ける側は少し気がラクになるかもしれない。アドバイスをする側も人間だ。いつも正しく良いことを言うとも限らないし、言われた側に合っていないことを言うこともある。正論のような意見だったとしても、それが良いこととは限らない。

私は「意見」の類のアドバイスを聞く必要はない、と言っているわけではない。ただ、言われたことは「一人の人間の一つの意見である」ということを認識するだけでも、時として心が軽くなることがあると思うのだ。

「事実」と「意見」を切り分け、自分はどうしたいのか自分の「意見」を構築する、そうすることで今より生きやすい毎日を送ることができる人が増えるのではないか。その訓練としてもファクトチェックについて知ることは有効かもしれないと思うのだ。

同じ業界に身を置く人たちと話をしていても、このようなことを言われたり感じることはまずない。そう考えると、全く違う立場の高校生と中学校の先生と話ができたことは私の中でとても大きいし、これからもこんな機会を作っていけたらと思う。

お二人とお会いした高知県で。お寺の石垣に多肉植物がたくさん付いていてかわいかった。(本文とは何の関係もありません)

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