ジェンダーのステレオタイプから解放されるには

前回のブログ「セーラームーンが登場するカナダの学校教材」に書いたように、メディアがジェンダーのステレオタイプにどのように影響しているのかについて考えてから、「男/女らしい」とは一体なんだろうか、私には全く必要のない概念のように思えるのに、そもそも存在しているのはなぜだろうなどと考えていた。

私がなぜこんなにも「女らしく」という言葉にネガティブな感情を抱くのか考えてみると、祖母の影響なのだと気が付く。幼い頃、「女の子なんだから」とか、弟と比較して「性別が逆だったらよかったのにね」とよく言われていて、その度になんと反応したら良いのか困った記憶があるのだ。

先日、友人とジェンダーのステレオタイプについて話をしていて、意外な考えを聞いた。「男だから」と決まっていた方が様ざまな場面で判断に迷うことがないからラクである、と言うのだ。私から見てその友人は、器用で凄い適応力の持ち主なので、「男らしい」振る舞いをすることも苦にならなかったのではと予想できたし、実際に彼は「男らしい」。ジェンダーのステレオタイプに従うことを心地よいと思っている人もいるのだ、と新しい発見をしたのだった。

ジェンダーのステレオタイプにポジティブな感情を抱けない私は、友人の意見に同意することはできないが、「男/女だから」という考えがなくならない理由の一つがわかったような気がした。

日本でジェンダーのステレオタイプをネガティブに考え、改善するように組織的に活動している例を私は知らないが、アイスランドでは教育の場で実践されているらしい。

教育新聞に載っていたヤットリ・モデル(Hjalli-model)と⾔われる教育⽅法の一部を引用する

この教育⽅法の特徴は、男⼥別のクラスを編成し、それぞれに「埋め合わせ」の教育を提供することだ。例えば、⼥の⼦には、勇気と⾃信をもって、⾃分の⾔葉ではっきりと意⾒を⾔うことを学ばせる。同校のウェブサイトには、机や窓枠から思い切って⾶び降りる⼥の⼦たちの写真が掲載されている。⼀⽅、男の⼦には、お互いを思いやり、やさしくすることを学ばせる。⼈形遊びもするし、クラスメートの髪の⽑を整 えてあげる⼦もいる。

男⼥が⼀緒のクラスにいると、お互いを⾒ながら男⼥それぞれの性に特徴的な役割を引き受けてしまうことが多く、教員から得る注⽬度合いも異なる。あえて男⼥別のグループにすることで、「おとなしくてやさしい⼥の⼦」や「強くて活発な男の⼦」という役割から解放し、それぞれの⼦供に平等な機会を与え、可能性を最⼤限に引き伸ばそうというわけだ。

この記事に書かれていることに心当たりがあった。私は高校1年生を女子校で、2・3年生を共学校で過ごしたが、女子校の女子は確かに共学校の女子に比べて圧倒的に活発だった。

つまり、ジェンダーのステレオタイプが浸透している日本において、女子が性別を気にせず自分らしくあるためには、物理的に女子だけの空間を提供することが一番有効なように思える。

しかし、学校に通う期間は限られており、社会に出れば異性と関わることは避けられない。とすると、ジェンダーのステレオタイプが人生に影響することは、結局のところ避けられないのだと思う。

最近、日本でもやっと認知され始めたLGBTQの人たちも「男/女らしい」の概念には当てはまらないだろう。まだ日本でジェンダーのステレオタイプはなくなりそうにないが、「男と女」という二元論で考えるのではなく、多様性を世間が認める時期にきているのではないかと思う。そして、「女らしくない」私個人としても、性別に限らず、自分がありたい自分でいられる、という世界になることを願わずにはいられない。

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