映画を観にNY

映画が終わってから泣くなんてことはこれまで一度もなかった。映画で泣く時は映画の最中と決まっていたからだ。せっかく監督が目の前にいてくださるのに、言葉を発することができないほど、泣いた。自分でもなぜ泣いているのかわからなかったし理解できなかった。でも涙は止まらなかったし、なぜだか私はひどく混乱していた。

ずっと観たいと思っていたのに機会がなかった想田監督の映画の上映がNYであると知ったのは、数日前だった。知った瞬間に行くことを決めた。会社に休暇を申し入れ、映画のチケット、飛行機のチケット、宿を取った。お世話になっているNY在住のお姉さまにもお声掛けをし、NYへ向かった。

想田監督は観察映画を撮られている方だ。観察映画というのはドキュメンタリーの一種だが、特に何を伝えるのかを事前に決めることなくカメラを何十時間も回し、それをつなぎ合わせて一つの映画にするという手法で制作されたものである。ナレーションはおろか音楽もない。撮影者である監督の声がごくたまに入っているけれど、場面が説明されることはなく、ただただ撮影された映像が繋ぎ合わさって映画という形になっているものだ。そして観客がその映画を観察して思い思いに理解する。

私は観察映画というジャンルがあると知ってから、想田監督が書いた「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」という本を読んだが、それがいかに通常「ドキュメンタリー」と呼ばれるものと違うのかを知った。ドキュメンタリーには制作者の撮りたい絵が先にあり、台本にそって撮影を行うらしい。ただ撮り続けるという想田監督の観察映画とは根本的な思想もプロセスも違うのだ。

ただ、私にはメッセージも目的も定めずに映画が制作できるのか、疑問が残った。だからずっと観察映画を鑑賞してみたかったのだ。

結論から言うと、すばらしい映画だった。これは上記の本の中で想田監督本人も言っていることだが、ナレーションや音楽がないせいで、自分が今その場にいるような感覚に陥り、登場人物が身近に感じられ、感情移入しやすくなっている。

私が今回鑑賞したのは「精神」(2008年、釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞受賞、ドバイ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞受賞などなど多くの賞を受賞している)という岡山県にある精神科診療所に通う実在する人たちを顔も含む全てを撮ったものだった。上記の本でもこの作品に触れていて、私はこの作品を特に観たいと思っていた。作品からは彼・彼女たちの苦しみが辛いくらいに伝わってきた。途中で彼・彼女たちに感情移入しすぎて、私まで苦しくなり、いても立ってもいられず途中で退出しようかと考えたほどだ。それほど「リアル」な映画だったし、映画を観ていてこんな気持ちになったのは初めてだった。

私は過度なストレスを感じると耳が聞こえなくなる。私の周りにはストレスで体調を崩している友人が複数いる。それも手伝ってか、なんだかこの精神という映画に出てくる人たちのことを人ごとには思えなかったのだった。誰でもこの映画の中に出てくる人たちのようになりうると思った。そして精神的な疾患を抱える人とそうでない人の境界線は極めて曖昧なものなのだとも。

上映後の質疑応答で、こうした精神疾患を抱え病院に通う人とそうではない人はカーテンで仕切られたようなものだ、という表現がされた。私はそれはとても曖昧な境界線で誰でもそちら側に行く可能性があるにもかかわらず、カーテンの向こう側は良く見えない、ということを指しているのだと思った。

精神疾患、心の病、偏見はまだまだ多いが、そんな偏見はすぐにでも無くなってほしいし、この映画がその偏見を取り払う一つのきっかけになり得ると思った。

1泊2日。時間とお金を出してでもNYでこの映画を観ることができて良かったし、やはり自分の行動に制限をかけることなく素直に行動することが大切なのだと再確認したのだった。

想田監督のドキュメンタリー映画のシリーズ上映はNYでまだまだ続くようだし、こちらのサイトから7日間は無料で、それ以上は有料で監督の映画やそれ以外の映画を楽しむことができる。日本は配信エリアに入っていないらしいので残念だけど、日本国外からアクセスできる人はぜひ。

映画が衝撃的すぎて会場で写真を撮り忘れる。イベントページから写真を拝借しました。

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