少し前に祖父の四十九日法要が終わった。後飾り祭壇から移動し、祖母と仲良く仏壇の中に納まった。2人の死は今でも信じられないが、信じているかどうかに関わらず、もう祖父母には会えないのだと思うと、悲しいというより不思議な気分になる。
でももしかしたら祖父母は近くにいるのかもしれない。私には霊感がないので、今までは霊の話を聞いても信じる信じないの前に、わからないという感覚が先に来ていたのだが、最近、科学では証明されない霊は本当に存在するのかもしれない、と思い始めている。祖父母が亡くなった後に、家のものが驚くべきタイミングで落ちてきたりするのだ。今までこのようなことは全くなかったので、もう、驚きしかない。
私は今まで人は死んでしまったらどうなっても同じだと思っていたけれど、きちんとした供養は本当に必要なのかもしれないと思い始めた(祖父母の供養はきちんとやっている)。
だが、供養するには遺族が手続きをし、安くはないお金を用意する必要がある。誰でもしてもらえるものではないので、それをしてもらえない人はどうなるのだろうか、と気になっていた。
そんな時、「足立区行旅死亡人等追悼式」の案内を見つけた。
ライフドットには行旅死亡人(こうりょしぼうにん)についてこう書かれている。
行旅死亡人とは本人の身元が判別できず、遺体の引き取り手がない死者を指す法律上の言葉です。
その言葉から旅行中の行き倒れて身元が分からない人を連想しがちですが、病気、事故、自殺、他殺も含めて身元が判明しない人はすべて行旅死亡人として取り扱われます。
昨今では独居老人が増加していますが、孤独死で身元が分からない場合も行旅死亡人になります。
個人でできない分は行政がしてくれるのだと知って安心した。足立区行旅死亡人等追悼式の案内に「令和2年1月から令和2年12月に区内で亡くなった行旅死亡人などの追悼式を行います」とあったので、恐らく年に1回行われるものだろう。どんな感じなのか様子を見に行ってみることにした。
ただ、行ってみて自分の想像力の甘さを思い知った。案内に「当日は直接会場へお越しください」と書いてあったので、多くの人に開かれた場所で、誰でも様子が見れるのかと思ったのだが、そんなことはなかった。入口の扉は固く閉ざされていた。
とはいえ、せっかく来たので、意を決して扉を開けてみた。そこには大きく立派な祭壇があり、コロナの影響だろう、椅子が一脚ずつ離れて規則正しく並び、フォーマルな喪服を身に纏った参列者たちが30人ほど座っていた。
私がカジュアルすぎる服装だったからだろう。受付の方にとても不審がられてしまったので追悼式への出席は諦めた。雰囲気から察するに、参列者は区の職員か、福祉系のソーシャルワーカーさんなどだけのような気がする。そもそも供養してくれるような親族や友人知人がいれば、この場で供養されないので、つまり、そういうことなのだと思う。
すごく閉じられた空間ではあったが、予想以上にきちんと行われているのを見て、さすが日本の行政だと思った。
今まで死を意識して生きてこなかったが、こうして定期的に死を意識することは、生きていくために必要なことのような気がしている。すべての人はいつか必ず死ぬ。その当たり前のことを忘れずに、日々を過ごしていきたいものである。