難民映画を娯楽として消費するということ

会場にいるお客さんは99%白人、壇上で話す人、組織の紹介映像で出てくる人は100%白人。トロントで生活していて初めて見る光景だった。人種によって行動範囲が違うということは以前から感じていたことだけど、こんなにも実感することはなかった。アジア人の私はなんとなく居心地の悪さを感じた。同じ金額を払ってそこにいるにも関わらず。

 

それはA Syrian Love Story という映画を観に行った時のことだった。先日シリアへ送る荷物の荷造りボランティアをしてから(その時の記事はこちら)、なんとなくシリアが気になっていたのだった。この映画は2015年に制作されたもので、tiff(トロント国際映画祭を主催している団体が運営している同名の映画館) で行われているHuman Rights Watch Film Festival という催しで1回だけ上映されたのだった。

これはノンフィクションで英国人の1人の映画監督が2009年から一つの家族に密着して撮影したもの。簡単にいえば、政治犯が収容される刑務所で男女が出会い、家族になり、最後には価値観の違いから別々の道を歩む、という物語である。4人家族は1人も欠けることなくフランスの難民になることに成功するが、途中で登場するシリアに残っていた友人たちは何人も亡くなってしまう。政治や戦争・紛争が家族に与える影響、難民として生活することの難しさや葛藤、家族とは子育てとは、命とは生きるとは何か、ということを考えさせられる映画だと思う。一つの家族に密着することでより生々しい映像になっていた。

内容はとてもとても暗く、私は終盤で泣いたことも影響したのか、映画が終わった時には疲れ果てていた。

では他のお客さんはどうだったのか。映画の内容は暗いのだが、それでも映画には家族の一人であるひょうきんな小さな小さな女の子が登場して和ませてくれていた。その場面では、お年寄りと思われる笑い声が度々聞かれた。かわいいわね、という言葉とともに。

確かに女の子はかわいかった。でも…かわいい中に小さい彼女なりの葛藤が垣間見れていて、かわいいだけではなかったと私は思った。私は笑えなかった。

映画中や映画が終わってからの観客の人を見ていて思った。この悲しい悲しい家族のノンフィクション物語は裕福な人たちの娯楽として消費されているのだと。カナダは移民が多いが、社会でいわゆる成功者と言われる人はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)でまだまだ白人社会である。観客の多くは仕立ての良い服を身に纏うことができ、平日の夜にダウンタウンの映画館に足を運ぶことができ、映画のチケットを購入できる人たちだ。社会勉強もかねて娯楽の一部として映画を観る、という人のようにみえた。

でもそれで言うと、私もあまり変わらないのかもしれない。アジアの先進国出身で、母国の日本は平和、自分の意思でカナダに来て生活をしている。そして14CADの映画のチケットを買うことができる。

 

映画を観ることが悪いことだとは思わない。映画を観てシリアのことを知ることが無駄だとも思わない。お金を払って映画を観ることで、映画を制作した人たちがこのような映画を撮り続けられる助けになればいいな、とも思う。

でもこんなことを思えるのは、私が日本人でカナダで不自由なく生活しているからなのだと思う。

同じ人間として同じ時間を同じ地球で共有しているにも関わらず、なんて不公平なんだ、と思う。世界からみて恵まれている私。そんな私は難民ドキュメンタリー映画を観たということをただの娯楽で終わらせてはいけないのだと思う。ではどうしたら良いのか。今の私にはわからない。でもこれから考えていくべきことなのだと思う。

 

足取りは重く、もやもやしながら帰路に着く。戦争や難民問題を考える時にはいつも、もやもやがつきまとう。

 

※写真は映画が始まる前にこのHuman Rights Watch Film Festivalについての説明をするtiffの人。

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