言葉は言葉以上を物語る

目は口ほどに物を言う、とは上手く言ったものだ、と思う。同じことを言ったとしてもその説得力や真実味は全く異なる。人間は感覚的に非言語の部分で人を判断しているのだと思う。

でもその一方で私は最近、言語の部分の大切さを実感している。言葉の選択によっては言葉は言葉以上に自分を物語ってしまう、とでも言おうか。

私が日本に住んでいた時には自分と似た境遇の人と会うことがほとんどだったけれど、カナダで生活をしていると、色いろな境遇の日本人と出会う。それはカナダで生活する日本人の数が少ないので、日本人だから、という理由でお会いする機会が単純に増えるからである。

私はカナダの日本人コミュニティにはそれほど関わりがないので、それほど多くの人に会うことはないけれど、それでもごくたまに解読不可能な流行語を遣ったり、敬語のような不思議な言葉を遣う人たちに出会うことがある。そのような人は日本で私の周りには全くいなかったタイプの人たちだ。そして話を少ししてみると、今までなぜ私が彼ら彼女らのような人と出会ってこなかったのか納得する。

これは日本語に限らない。英語にしても、単語の選択次第でどんな人なのか、周りにどんな人たちがいるのか、がなんとなく想像できてしまう。最近会社の同僚のパートナーにお会いする機会があったが、遣っている言葉や話し方がそっくりすぎて驚いた。その方にそのパートナーあり、ということだな、と納得した。

また、たまに出会う日本に興味があるという非日本語母語話者の中には、日本語をほとんど話せないのに、日本の若者言葉だけに詳しい人もいて、なんだか複雑な気持ちになることもある。

どのような場面でどのような言葉を選択するのか、それは通常ほぼ無意識のうちに行われるが故に、今まで自分の関わってきた人たちや境遇を物語るのだと思う。

これを考える時に、私は普段から自分の理想とする言葉になるべく多く触れていたいと思う。

とかブログに言葉を遣って書いていて、若干の居心地の悪さを感じているが、これからは特に英語についてきちんと理想を持った上で学んでいきたいと改めて思うのだった。

会社のマネージャーのペットのオウム。よくしゃべる。

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