昨日『コオロギと毛ガニと価値観』を書いたら、コオロギに抵抗がある人が一定数いることがわかった。一度確立された価値観を変えることは理屈では無理なのだとわかった。差し迫った危機が訪れない限り、人間は理屈ではなく感情に左右されるということか。2021年の今、コオロギを食べなくても生きていけるので、特に食べる必要はない。だから今はそれで良いのだと思うし、そんなものだろうとも思う。
私が海外で色々な背景を持っている人と関わる中で、食べものに関して一度少し戸惑ったことがあった。
友人に「Mikiは身体に悪い豚肉をなぜ食べるのか?」と聞かれたことだ。
これを前回も提示した、カナダの学校の授業案(中学1~2年生用)の「価値観とは何か」の資料に当てはめて考えてみる。
- 私たちの価値観は、直接教えられたものもあれば、周りの世界を見て無意識に吸収したものもある
- 価値観は、家族・友達・仲間・宗教・メディアから形成される
この中で、友人のこの価値観は「宗教」を基にして家族・友達・仲間・メディアのすべてからきたものであると考えられる。それは、彼がイスラム教を信仰するトルコ人で、この会話がされる半年くらい前にトルコからカナダに来た20歳の男の子だったからだ。
彼との会話の中で、彼は豚肉を食べる私を非難するというより、単純に豚肉は身体に悪いから食べない方が良い、という親切心からくるアドバイスをしていることがわかった。私は豚肉のどの成分がどのように身体に悪いのか、と聞くことはできたが、成分という科学的事実の話ではなく、豚肉を食べるかどうかという価値観の話だと思ったので、アドバイスは嬉しいが日本では豚肉を食べる文化があるし、私は豚肉を食べることでの健康被害は知らない、ということを伝え、この会話を終えた。
日本で豚肉はどこでも売っていて、おそらくほとんどの人が食べる食材だが、イスラム圏ではそんなことはない。私が一時住んでいたイスラム教が国教のマレーシアでも、豚肉はスーパーの隅で売られ、会計も別にしなくてはいけなかった(イスラム教を信じる人は豚肉を触ることもダメなのだ)。
豚肉を食べるという価値観を持った人も、食べないという価値観を持った人も世界には混在している。そしてその価値観はお互いに尊重されるべきだと思うし、現段階では世界的に尊重され共存できているように思う。
コオロギを日常的に食している人が世界にいるのかどうか私は知らないが、コオロギを提供しているレストランは日本にもある。コオロギを食べるなんてあり得ない、という価値観を持つことは自由だが、コオロギを食べないという選択をすることに科学的根拠は何もない。そんな状況で、コオロギを食べることにネガティブな言葉を口にすることに意味はあるのだろうか。
豚肉を食べる食べないの価値観と同じように、コオロギを食べる食べないの価値観も自由に持って良いし、どちらも認められて良いと思う。
そして、これはコオロギに限らず、日常の様々な場面でも言えるはず。他人に迷惑をかけるようなことは避けてほしいが、そうでなければ価値観は多様であって良いし、多様であってほしいと私は思っている。そうすればもっと多くの人にとって生きやすくなるはずだと思うからである。