英語生活の副作用

トロントでの英語を使った生活は、日本のようにはいかない。もちろん4年目にもなれば日常生活はなんら問題はない。でも、ちょっとした時に私は英語が理解できないのだ、と打ちのめされる。例えばイベントや講演会だ。興味のある分野を調べてみては参加したりしているけれど、専門用語を知らなさ過ぎてイベントに出たはいいものの理解がほとんどできない、一緒に行った人に後で答え合わせの質問をする、なんてことはよくある。そのたびに悲しい気分にはなるけれど、もう今は開き直っている。そして興味があれば英語力が足りなくても少々場違いでも参加するようにしている。すべてを理解することはできなくても、何かは理解できるからだ。

では日本で生活していた時はどうだったかというと、今のようにはいかなかった。日本に住んでいると、このイベントにはこんな属性の人が来るから私が参加したら場違いではないか、などと考えてイベント参加を躊躇したりすることもあった。場違いなところに行って恥をかきたくなかったのだ。

先日の一時帰国の時に思った。私が過去に日本で感じていた恥じらいをいつのまにかどこかに捨て去っていることを。かなり図々しくなったことを。

普段トロントで講演を理解できるかどうかという低レベルの心配をしている私は、場違いと思われる場所であっても日本語で基本的に理解できるであろう講演やイベントに参加するというハードルが著しく下がっていたのだ。

そして1年に数日しか日本に帰らないので、仮に恥をかいても恐らく同じ人たちに再び会うこともないだろうし、かなり気が楽になっていた。

そんな私が行ったイベントは「声力講座」である。これはオペラ歌手の島村武男さんが主宰している声を出すトレーニングをする講座だ。私はこれをFacebookでつながりのある元劇団員さんが参加してよかったと書いていたのを読んで、いつか参加したいと思っていて、カナダへ戻る前日の夜に開催されると知ってトロントから申し込みをしていたのだった。

なぜ声を出すトレーニングなんだ、と思われるかもしれないが、私の声は元々小さく、英語で話していても聞き取ってもらえないことがある。大きな声で話すということは、ジビネスの場では特に自信を持っているとみなされやすいので、私は大きく良い声を出したいと思っていたのだった。

直前に友人も参加することになり二人で参加した。講座に参加されている方々は皆さん温かい人たちばかりだったので救われたが、私たちは完全に場違いだったと思う。だって私たち以外は皆さん本物のオペラ歌手だったのだから。最後に講座の効果を図るために、歌か朗読を選択できるのだが、皆さんびっくりするくらい美しい歌声だった。人間はあんなに大きく美しい声が出るものなのだ、と衝撃を受けた。(そんな参加者に対し先生はずいぶんとダメ出しをしていた。私にその違いは全然わからなかったけれど。)私たちはというと、先生の持っていた朗読資料を読み、基本的な発生方法について学んだ。

場違いだったけれど、参加してみてよかった。身体の機能について学ぶこともできたし、発声方法についても知ることができたし、そしてなによりこのような世界があるのだ、ということを知ることができたからだ。

今までも参加したいけれど参加しなかったイベントや講座などがあった。恥じらいなんてもっと昔に捨て去っておけばよかった。でも英語で生活していることで、思わぬ変化を自分自身に感じることができて得した気分。

自分のやりたいことは躊躇せずに、周りに関係なくやるに限る。

パリのCDG空港にはグランドピアノがある。上手い下手に限らず皆楽しそうに弾いていたのが印象的だった。

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