日本人は権力に対して従順で、権力のある人や組織から発信される情報を信じやすいと思う。それは教育の大きな成果だと思う。小さな頃から学校の先生の言うことは絶対で、困ったことがあれば年長者にアドバイスを求めなさい、と教えられる。だから情報を疑うということをしない。きっと日本にはそのような教育が必要だったのだと思う。戦後、日本が復興していく時代、この教育方針は多くの情報を持っている人がそうでない人を「正しい方向」に導くのを助けていたのだと思う。
カナダでは情報は疑うものとして学校で教えられる。小学生から情報の取捨選択について教えられるのだ。なぜか。それはカナダがそうせざる負えない事情があったからである。カナダはアメリカからの影響を受けやすい。隣の国で文化も似ている同じ英語圏の国だからだ。カナダ人はカナダのメディアと同じようにアメリカのメディアを利用できる。アメリカのメディアに触れた時、アメリカ側で報道されることを「正しい」ものとして信じてしまうと、カナダ政府として都合が悪いのだ。同じ事象も発信者の所属先で論調が異なる。だから誰がどのような意図でこの情報を発信しているのか見極めなさい、と教えられるのだ。
どちらの国が良いと言うつもりはない。その国の状況にあった教育を採用しているだけだからだ。でも一つだけ言えることは、教育は政治に左右されていて、政府は教育を通じて「理想の国民」を創り上げようとしているということだ。
それは良い側面も悪い側面もあるだろうが、それが政治なのだと思う。でも私は「理想の国民」ではなく「理想の自分」になりたい。そこで私は考えるのだ。理想の自分とは何か。それには何が必要なのだろうかということを。